「Tシャツが乾くまで」の失踪癖とミニマリズム
「失踪癖」とは字の通り、定期的にいなくなってしまうクセである。
現在放送中の金曜ドラマ『Tシャツが乾くまで』のなかで、松山ケンイチ演じる瀬尾充にはこの癖があるという設定だ。
ネタバレ無しでざっくりと話すと、充は親から十分な愛情を注いでもらえずに育ったことで、家を自分の居場所だと感じられず、8歳の頃から2〜3年おきにふらっと姿を消すようになった。
そして大人になり、蒼井優演じる瀬尾咲子と結婚。
マイホームを購入し、これから幸せな暮らしが続くと思いきや結婚10年目にしてまた失踪。
さらに1年後、何事もなかったかのように咲子の元へ戻ってくるのである。
そのとき初めて、自分には「失踪癖」があることを打ち明けるのだが、なぜか他人事のようには思えない感情を抱いた。
今回は失踪癖とミニマリズムという、一見関係なさそうで実は繋がっているという話をしたい。
私の過去
私自身、失踪する癖はないのだが、昔から無性に逃げたくなる事は多々あった。
というか逃げてきた。
学生時代のバイトは1日でバックれたり、日雇いの引越し作業の途中で抜け出してそのまま家に帰ったこともあった。
美容師の仕事は1ヶ月足らずで無断欠勤し、卒業した専門学校・親から電話がかかって来た。
そして大人になってからも会社は3年以内に転職し、結局フリーランスとして独立した。
振り返ってみるとハチャメチャである。
昔から同じ環境や場所にずっと留まることが好きではなくて、たとえそこが居心地のいい場所だったとしても2、3年ほど経つと何故かそこから離れたくなるのだ。
ドラマでは「家族の転勤で地元がない」という設定だが、私も地元というものがない。
親の転勤はなかったものの、私立中学に通っていたこともあって小学校の同級生とは疎遠になったし、高校1年生のときに引っ越ししたので「同じ場所・同じ環境」にいることが普通ではなく、むしろ環境変化が当たり前であった。
だからか、その環境から逃げることに抵抗が全くないのだ。
「飽きっぽい」で片付けられてきたもの
その場からフェードアウトした後の周りからの声は決まっていつも同じだった。
「飽きっぽい」「根性がない」「甘えている」
まあそう見られても仕方ない。正直、自分でもその続かなさについて悩んでいた時期がある。
でも今振り返ると、あれは「飽き」とか「根性なし」という単純なものではなかった気がする。
その環境が直感で自分にとって違うと悟ってしまうのだ。
仮にそのコミュニティや環境に慣れたとしても、人間関係と生活スタイルが固定化され、いかに効率よく生きるかを目指しはじめ、生活の完成度が上がったあたりで「何か変えたい」という、決まって同じ感覚がやってくるのだ。
明日が今日の複製でしかないと分かってしまう感覚に近い。予測可能な毎日であれば、それはもはやプログラムと同じだ。
飲食で働いていた頃、完全にノッてきたと思えるタイミングがあった。仕込みの段取りも、ピークの捌き方も、何も考えずに手が動く。周りからは「エース戦力になった」と言われた。
こういうことはどんな業種でもあるだろう。
普通であればそれを維持したいと思うだろうし、モチベーションも上がるのだろう。
でも私はその瞬間から、辞める理由を探し始めていた。
ドラマ内で充が家から消えるのも、そこに愛着がなかったからではないのだと思う。
安定した幸せの中にいるからこそ、「このままでいいのか」という違和感がどんどん膨らんでいく。
むしろ、幸せであることが違和感を加速させる。壊す理由が何もない状況ほど、壊したくなるパラドックスだ。
失踪したくなるのは「破壊衝動」から来ているのかもしれない。
ミニマリズムは「減らす技術」ではなく「破壊」である
ミニマリズムは「物を減らす」「持たない暮らし」という文脈で語られる。収納術や断捨離の延長線上にある、生活のダウンサイジング。そう理解している人が多い。
でも本質はそこではない。
削るという行為は、「今の自分に本当に必要なものは何か」を絶えず問い直す作業。
だから違うと思ったら壊していく、「破壊」である。
作ったブロックを壊して、また違う物を作っていく感覚に近いだろうか。
一度完成した物を眺めているだけでは正直つまらない。
だから生活において必要なものは季節ごとに変わるし、年齢でも変わるし、仕事が変わればまるごと入れ替わるのもおかしくはない。
その度に再構築する。一時的にモノが増えたっていいだろう。
モノの少なさにこだわっている時点で他人の判断に依存しているし、「それってミニマリストなの?」と他人に言われただけで気にしてしまうのは本質がズレているのだ。
ミニマリズムは自分との対話であり、継続的破壊であり、「完成」は存在しない。
また、ミニマリズムを取り入れると「モノだけでなく環境を捨てること」にも抵抗がなくなる。
私が失踪癖という言葉に反応してしまったのにはここに理由がある。
充のそれは病として描かれるが、構造だけを取り出してよく観察すれば、私がずっとやってきた行為と私が思うミニマリズムの「削る」とほとんど同じ形をしているのだ。
離れていいもの、離れてはいけないもの
まず、「同じ場所に留まれない自分」を欠陥として扱うのをやめよう。
治すべきクセではなく、その習性を前提条件として人生設計を組むこと。
2〜3年で環境を変えたくなるなら、それを前提にした生き方を選べばいい。
フリーランスという形も、身軽な暮らしも、資産の作り方も、全部その前提から逆算している。
私が持ち家を購入しないのも、資産価値とかローンとか云々より「買ったとしても数年後には移動したくなるだろうな」ということが想像できるからだ。
充が「家を購入した後に逃げたくなった」と心境を話す描写があるが、実際に家を買った後に職場を変えたくなったり、新しいチャレンジをしようとしたり、何かしらの環境を変化させたりしても「強制ロック」されてしまって行動に移せない人は多いだろう。
動きたい時に動けないことが何より1番の苦痛であり生き地獄なのである。
だから環境からは、私は何度でも離れることを自分に許す。
ただし、「自分の哲学」からは絶対に離れないこと。
自分の判断軸がブレてしまったら、環境変化の選択にもミスが出てきてしまう。
充が咲子のもとに戻れたのは、彼女が変わらずそこにいるからだ。「戻る場所」をどこに置くか、その判断軸は人によって異なる。
私が今後、どうなるかは自分でも分からない。
先行きが不透明・将来の予測が困難なVUCAの時代であるが、だからこそ常に環境を変えていく姿勢が必要であり、それが生きる楽しさでもあると感じるのだ。
何を削って、何を創って、何を選ぶのか。
それさえ手放さなければ、今いる場所から離れても大丈夫だ。