「これはミニマリストらしくない」という呪い
「ミニマリストです」と名乗った瞬間から、その呪いは始まる。
言葉の呪縛だ。
そしてさらに、ミニマリストは宗教に近いと僕は本気で思っている。
なぜこういう話をするかというと、「ミニマリストはこういう物持たないよね」とか「それ持ってるならミニマリストじゃないじゃん」という言葉を今までかけられたことがあるからだ。
言った本人に全く悪気はないと思うのだが、毎回心の中で「ん??」と一瞬考え、違和感を覚えていた。
これは人間の心理機構、すなわち思考から発生していると考えている。
今回はこの謎を深掘っていきたい。
教典のない宗教?
神はいない。教典もない。それでも「こうあるべき」というものが、どこからともなく存在している。
これがどれだけ奇妙なことか、一度立ち止まって考えてみてほしい。仏教なら経典があり、キリスト教なら聖書がある。教義を疑うにしても、疑う対象がはっきりしている。ところがミニマリズムには、そのテキストがどこにもない。それは当たり前の話で、ミニマリズムはただのツールだからである。
それなのに誰も書いていないルールを、みんなが暗黙のうちに共有している。
だから「ミニマリストなのにそれ持ってるんだ」という発言が生まれる。これに出会うたびに、少し意味が分からなくなる。持ち物の数を数える審査員は、どこにも任命されていないはずだ。それでも、名乗った時点でタグ付けがされる。そしてそのタグから外れた瞬間、指摘される。教典のない宗教にしては、ずいぶん熱心な信者がいるものだ。
ここでまず押さえておきたいのは、この「べき論」の出どころが誰なのか、実は誰にも分からないということだ。SNSやメディアから発信される情報を受け取った僕たちに無意識に植え付けられているのだと思う。
定義が存在しないという前提
出どころ不明の教義に振り回されないための、一番シンプルな解毒剤がある。それは、ミニマリストという言葉に、そもそも定義など存在しないと認めることだ。
これはライフスタイルの一部であり、散々言っているようにただのツールに過ぎない。だとすれば、途中でやめてもいいし(捨てても、増やしても)、自分に合うようにカスタマイズしてもいい。カバンの中身だけミニマルにする。それだけでも十分に成立する。生活のすべてに適用する義務なんて、どこにも書かれていない。
よく、ゆるミニマリストとか、ミニマリスト見習いとか、そういうワードを見るが、それはミニマリストとはこうあるべきで、その基準よりも上か下かみたいな考えがあるから生まれるのだと思う。
しかし本来、基準は常に自分であるべきで、他人が作った価値観が正であるべきではないと思う。
例えば、僕が最近引っ越して物が増えたが、そのことに関して気にしてはいないし、環境が変わったから当然と思っている。軸は常に自分だ。
「あの人に比べたらまだ物が多い」という考え自体がおかしいのだ。
「物」という道具に哲学を込めることと、道具そのものが哲学になることは、似ているようでまったく違う。前者は主導権がこちらにある。後者は主導権を明け渡している。「ミニマリストらしいかどうか」で物を選び始めた時点で、それはもう最適化ではなく、誰かが勝手に作った基準へ迎合しているだけなのだ。
なぜそこまで求めるのか
ここで一度、話の角度を変えてみたい。
モノを極限まで減らし、部屋には何もない。完全にノイズレスな空間ができあがったとする。なぜ、そこまで求めるのか?
一番大きな理由は、それが本人にとっての生き甲斐であり、ある意味の「趣味」だからだと思う。日曜大工が趣味の人が毎日工具を手入れするように、部屋を整えること自体が満足感の源になっている。減らす行為そのものが、コントロール感を生み、達成感を生む。それ自体は何もおかしくない。趣味に貴賎はないのだから。
しかし問題はその先にある。
減らすことそのものが目的化した瞬間、先ほどの「教典のない宗教」は、外側からではなく内側から自分にかかり始める。他人に指摘される呪いから、自分で自分にかける呪いへとゆっくり移行する。
本当は欲しいものがあるのに、「ミニマリストらしくないから」と我慢するとか、必要なのに物が増えるからという理由で買えないとか、誰にも何も言われていないのに、自分で自分を審査している。これはもう外部からのタグ付けではない。自分自身が教祖になり、自分自身が信者になっているセルフ宗教状態だ。何もない部屋の写真がSNSでどれだけ映えるかを気にした瞬間、本来求めていたはずの自由から遠ざかっている。
呪いを解く
ここまでの話をまとめると、構造はシンプルである。実体のない教義が生まれ、それが他人の目を通して自分に向けられ、やがて自分自身の中でも再生産される。
なので解き方も同じくらいシンプルな方法を提案したい。「ミニマリストらしいかどうか」を、判断基準から外す。それだけだ。
大事なのは、何を削るかではなく、何を守るために削るかということ。カバンの中身だけでもいい、服だけでもいい、それぞれの生活に合わせて自分のスタイルを貫き通せばいい。誰かの「べき論」に、自分を合わせる必要はない。
三度言うが、ミニマリズムはただの道具だ。
道具に振り回されるということはあってはならない。それこそが、この呪いを解く唯一の方法だ。