減らすことが、新しい執着になる理由
よく、巷ではミニマリストに向けて「物への執着を手放しても承認欲求は手放せていない」という皮肉ったセリフがある。
要するに、物を極限まで少なくするがSNS等で整った生活や部屋をアップすることで、周りからは承認欲求丸出しに見えるわけだ。
これは確かに一理あるかもしれない。
しかし、そもそも「ミニマリストはモノへの執着がない」というのは完全なる思いこみだ。実はモノに執着している。
さらにここで1つの問いが出てくる。「モノを減らせば執着がなくなる」という前提はどこから来ているのか?
一般的な誤解・ 執着の本質
まず「モノを減らせば執着がなくなる」という前提を疑ってみたい。ミニマリズムにはモノの量を減らす行為が含まれるが、執着そのものはモノの量と直接関係していない。
モノそのものではなく「関係性」だ。そのモノの意味や前提に縛られている。具体的には「それがあることで自分が成立している」という状態。
なので、例えば「何もない白い部屋にいることこそが自分でありミニマリストだ」と思っていたらそれはモノを超えて空間への執着だ。
だから「減らす」が本質ではない。
どれだけ持っているかではなく、それをどう位置づけているか。
執着は外側ではなく、内側にある。
ミニマリストが執着している3つの理由
ミニマリストという肩書きからの執着
「ミニマリストらしく見られたい」という他人軸の評価から、ミニマリストのアイテムといえばこれという物の所持へ繋がっている。
例えば真っ白な部屋こそがミニマリスト!と思い込んでいると、そういう部屋にするために引っ越したりだとか物を買ったりだとか、誰かに見せる為前提になってしまうのだ。
海外を見ると、バリエーション豊かさを感じるが日本だとミニマリスト〇〇という肩書きが多いせいかパターン化してしまう傾向にある。
私もタイトルなどで便宜的にミニマリストというワードは使うが、アイデンティティとして名乗るのが好きではない。
肩書きに執着するのは仕事での「役職」に固執するのと同じような意味合いだと考えている。
残ったモノへの過剰な意味付け
物を減らすと、必然的に厳選したモノだけ残る。人間の心理的に「全て適当なものを選びました!」とはならない。
また、ミニマリズムを取り入れる人の性格も関係していると思う。どちらかというとこだわりが強く、「自分に合ういい物を厳選したい」という欲求が働きやすいのではないか。
自分の所持品に関心がない人はそもそもミニマリズムに関心を持たないと推測している。
なのでミニマリズムを追求すればするほど「これだけは絶対手放せない」と価値が肥大化する。持ち物が少ないほど一つ一つの呪縛が強くなるのだ。
最低限のモノで生活するということは、その最低限のモノが欠けたら生活は破綻するということ。
だから執着・依存していると言える。
「手放すこと」自体への執着
捨てることが目的になってしまった時点で、それは捨てることの快感に踊らされている状態だ。ドラッグに近い作用を持つ。
ミニマリズムを取り入れ始めて、捨てられない自分を責める人も一定数いると思う。これも執着だ。「必ず捨てなければならない」というふうに縛っている。
どちらも手段が目的にすり替わっている状態だ。ミニマリズムの悪魔に利用されている。
モノというのは物質エネルギーがあり、過剰に購入して溜め込んだり、過剰に捨てたり、人間を振り回すパワーを宿しているのだ。
真の手放しとは
モノを減らしても、「今はこれを選んだけど違う選択肢もある」という遊びを持たせることが執着から距離を置けるのではないかと考えている。
逆に、モノが増えたら「この状態も悪くない」と許容する。
自分が所持しているものが壊れたり、失われたり、手に入らなくなったとき、自分の内面まで揺さぶられるのであれば、それはすでに依存だ。
ストア哲学的にいうと、その状態は不自由とみなされる。
なので「全ては借り物である」と考えることが、物に支配されない方法なのではと思っている。
「所有している」のではなく、「選んで借りて使っている」状態。
結論
ミニマリズムは、モノを減らすことがゴールではなく、自分の価値観と向き合うための入り口に過ぎない。
量を減らしても、モノへの意味づけや前提が変わらなければ、執着の構造はそのまま残る。むしろ形を変えて続いていく。
道具というのはなぜかロマンがあるので「誰々は〇〇を持っている」というところに着目しがちだが、重要なのは「何を持つか」ではなく「モノとどんな関係性を持っているか」である。
「あってもなくてもいい」というちょうど良い距離感を持てているか。
モノを所有しているのではなく、選んで使っているだけ。
ミニマリズムとは、減らすことではなく縛られないこと。